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「ミレイア・セレス。俺は今日、お前との番契約を結ばない」
その言葉を聞いた瞬間、ミレイアは、聞き間違えたのだと思った。
王都の月神殿、その中央大聖堂には、昼だというのに淡い月光を思わせる銀色の灯りが満ちている。天井から吊られた無数の水晶灯が、今日ここで新たに結ばれる番たちを祝福するように輝き、正装した貴族や神官たちの衣装には、狼族が神聖視する三日月の紋章が刺繍されていた。
本来ならば、十八歳になったミレイアにとって、今日は人生で最も幸福な一日になるはずだった。
幼い頃からずっと一緒だったカイラス・ローデンと、正式な「月誓契約」を結ぶ日。
七年前、二人の手首に同じ銀色の番紋が現れた時、誰もが祝福してくれた。
少なくとも、あの頃は。
「……カイラス?」
名前を呼ぶだけで、声が妙に遠く聞こえた。
祭壇の向こうに立つ青年は答えなかった。
いつもならミレイアを見る灰褐色の瞳が、今日は一度もこちらを向かない。
濃紺の礼装に身を包んだカイラスは、磨き上げられた黒い床だけを見つめていた。握り締めた右手だけが、不自然なほど固い。
代わりに、彼の隣から柔らかな女の声がした。
「ミレイア様。突然のことで、おつらいお気持ちはよく分かりますわ」
その声音があまりにも穏やかだったため、ミレイアは一瞬、自分が慰められているのかと思った。
ヴィオラ・アルメネス。
王国でも指折りの大公爵家に生まれ、希少な金狼への完全獣化能力を持つ令嬢。艶やかな蜂蜜色の髪には月石の髪飾りが輝き、白銀の式典衣装は、どう見てもただの参列者が着るものではない。
花嫁の色だった。
そこで初めて、ミレイアの胸の内に冷たいものが落ちた。
「どうして……ヴィオラ様が、そこにいらっしゃるのですか」
聞きながら、答えを知りたくないと思った。
けれどカイラスは、ようやく顔を上げた。
「ヴィオラと婚約するからだ」
大聖堂のどこかで、息を呑む音がした。
ひそやかな囁きが波のように広がっていく。
ミレイアには、その一つ一つが聞こえてしまった。
「やはりね。ローデン家の跡取りが、獣化もできない娘と結婚するなんて無理だったのよ」
「でも、あの二人は真の番なのでしょう?」
「番だから何だというの。番紋だけでは領地は守れないわ」
「お気の毒に。棄て番になった女性なんて、もうまともな縁談は望めないでしょうに」
誰も大きな声では言わない。
それでも、聞かせる気がないとも思えなかった。
ミレイアは両手を腹の前で重ねた。指先が震えているのが見えないよう、右手で左手を強く握る。
「昨日まで……何もおっしゃいませんでしたよね」
「言えば、お前は今日ここへ来なかっただろう」
「来ませんよ」
思わず答えてから、ミレイアは自分でも驚いた。
涙はまだ出なかった。
代わりに、胸の奥から乾いた怒りが少しだけ顔を出した。
「婚約を破棄されるために、朝から母に髪を結ってもらって、父の用意した馬車に乗って、親族全員の前でこちらへ来る人間がどこにいるのですか。あなたが昨日のうちに話してくださっていれば、少なくとも私は、こんな格好で皆様の見世物になることはありませんでした」
カイラスの眉が動いた。
「見世物にしたいわけじゃない」
「では、何のためですか」
「正式な手続きのためだ」
「それなら控室でできます」
「ミレイア」
「分かりません。私には、本当に分からないのです。七年間、私たちは番だと言われてきました。あなたも、ずっとそう言ってくれていましたよね」
今度こそ、カイラスはミレイアを見た。
一瞬だけ。
その顔には、後ろめたさがあった。
だからこそ、ミレイアは余計に苦しくなった。
心から嫌われたのなら、まだ諦められたかもしれない。
だが違う。
彼は何かを捨てると決めて、その捨てる側にミレイアを選んだのだ。
「俺も……簡単に決めたわけじゃない」
カイラスは低い声で言った。
「お前のことを嫌いになったわけでもない。だが俺はローデン侯爵家を継ぐ。北境の防衛にも関わる家だ。父上の代から財政は悪化しているし、隣領との境界争いも続いている。これから先、家を支える妻には、それ相応の力が必要なんだ」
「私には、その力がないと?」
カイラスは黙った。
その沈黙が答えだった。
ミレイアは、自分の左手首を見た。
薄い銀色の狼と三日月。
カイラスの手首にも、まったく同じ紋様がある。
間違いなく、二人は運命の番だった。
それでも足りないらしい。
「俺は、お前を責めたいわけじゃない」
「では、誰を責めるのですか。獣化できない私ですか。それとも、私を番に選んだ月神様ですか」
「そういう言い方をするな」
初めて、カイラスの声に苛立ちが混じった。
「俺だって苦しんだんだ。お前と結婚すれば、俺個人は幸せかもしれない。だが家はどうなる。領民はどうなる。ヴィオラと結婚すればアルメネス大公家の支援が得られる。金狼の血もローデン家に入る。次の世代には強い狼が生まれる可能性が高い。俺は自分一人の感情だけで生きていい立場じゃない」
聞いているうちに、ミレイアの中で何かが少しずつ冷えていった。
七年前。
初めて番紋が現れた夜、十七歳だったカイラスは十一歳のミレイアの手を握って、「俺がずっと守る」と笑った。
熱を出した時には薬草園から勝手に薬を取ってきて神官に叱られた。
ミレイアが獣化できないと分かった時も、「俺には関係ない」と言ってくれた。
あの記憶まで嘘だったとは思いたくなかった。
けれど、人は変わる。
あるいは、変わったのではなく、優先するものが増えただけなのかもしれない。
「そうですか」
ようやく、それだけ言った。
カイラスの顔に、ほんの少し安堵が浮かんだ。
その表情を見た瞬間、ミレイアは傷ついた。
きっと彼は、ミレイアが理解してくれると思っていたのだ。
いつものように。
幼い頃から、カイラスが忙しければ待った。約束を破られても責めなかった。彼の母に「侯爵夫人になるなら我慢を覚えなさい」と言われれば、歯を食いしばった。
だから今回も、最後には物分かりよく頷くと思われていた。
「でしたら、一つだけ教えてください」
「何だ」
「ヴィオラ様とは、いつからこの話を?」
ヴィオラの唇が僅かに動いた。
カイラスは答えるまでに少し時間を置いた。
「三か月前からだ」
三か月。
ミレイアは心の中で繰り返した。
三か月前。
カイラスはミレイアの誕生日に首飾りを贈ってくれた。
一か月前には、式典後に住む屋敷について話していた。
十日前には、「忙しくなるが、式が終われば少しゆっくりできる」と笑った。
「三か月もあったのですね」
「……ああ」
「私に話す時間が」
「ミレイア」
「いえ、もう結構です」
自分でも驚くほど静かな声だった。
泣いたら負けだとは思わない。
けれど、今だけは泣きたくなかった。
ヴィオラが一歩前へ出た。
「ミレイア様。カイラス様をあまり責めないでくださいませ。わたくしも最初は迷いました。お二人が番であることは存じていましたから。でも、家同士の将来を考えれば、感情だけでは決められないこともございますでしょう?」
ミレイアは彼女を見た。
「ヴィオラ様は、カイラスを愛していらっしゃるのですか」
予想していなかったのか、ヴィオラは一瞬だけ目を見開いた。
しかしすぐに優雅な微笑を作る。
「もちろんですわ」
「いつから?」
「それを、今ここで申し上げる必要があります?」
「ありません。ただ、知りたくなっただけです」
ミレイアは少しだけ笑った。
「私だけが、何も知らなかったようですから」
ヴィオラの笑みがわずかに硬くなった。
その時、祭壇横に控えていた神官長が咳払いをした。
「これ以上、式典を混乱させるわけには参りません。ローデン侯爵家より提出された番契約破棄申請は、必要な署名、血印、証人記録のすべてを満たしております。ミレイア・セレス嬢、こちらへ」
銀の盆に一枚の羊皮紙が載せられていた。
番契約破棄証書。
ミレイアはその言葉を見ただけで、胃の奥が縮むのを感じた。
「私の署名は必要ないのですか」
「拒絶する側が規定の補償金を支払い、神殿が正当な理由を認めた場合、被拒絶側の署名は必須ではありません」
「正当な理由とは?」
神官長は少し困ったような顔をした。
「能力差、家格、後継者問題などを総合的に勘案しております」
なるほど、とミレイアは思った。
何とも便利な規則だった。
運命の番は神聖だと教えられてきた。
番を裏切れば月神の加護を失うとも聞かされてきた。
だが、有力な家同士の都合が絡むと、その神聖さにも例外が生まれるらしい。
「最後に、破棄内容を確認してください」
神官長から羊皮紙を差し出される。
受け取ろうとした瞬間、カイラスが言った。
「ミレイア」
彼女は顔を向けなかった。
「補償については、できる限りのことをする。屋敷も用意するし、一生困らないだけの金も――」
「いりません」
「意地を張るな」
「意地ではありません。あなたのお金で暮らしたら、毎朝目を覚ますたびに、これは私を捨てた代金なのだと思い出すことになります。それは少し、つらすぎます」
「だが、棄て番になったお前が今後どうなるか分かっているのか?」
その言葉は、心配から出たのだろう。
だからこそ残酷だった。
周囲のざわめきが、再び耳へ刺さる。
棄て番。
一度番に拒絶された者。
番制度を何より重んじるこの国で、その烙印は特に女性に厳しい。
再婚を嫌がる家は多い。子供を望まれなくなることもある。社交界では「番にも選ばれなかった女」と囁かれ、生涯を親族の庇護下で過ごす者もいる。
カイラスはその未来を知りながら、ミレイアを捨てる。
そして、心配までしてくれる。
なんて人間らしく、勝手なのだろう。
「分かっています」
ミレイアは答えた。
「あなたがそうなると分かっていて選んだのですから、私も受け入れます。ただし、その後の生き方まであなたに面倒を見ていただくつもりはありません」
カイラスが何か言おうとした。
その前に、ミレイアは羊皮紙へ手を伸ばした。
指先が触れた。
その瞬間だった。
――ギィィ……。
耳の奥を鉄の爪で掻かれたような音がした。
「……っ」
ミレイアは反射的に手を引いた。
「どうしました?」
神官長が眉を寄せる。
「今……音が」
「音?」
周囲を見回した。
誰も反応していない。
水晶灯が微かに鳴る音でも、扉が軋んだ音でもない。
確かに羊皮紙から聞こえた。
ミレイアは恐る恐る、もう一度触れる。
今度ははっきりした。
低く濁った音が三つ、重なっている。
一つは細い糸が無理やり引きちぎられるような音。
一つは水の底から金属を叩くような鈍い響き。
そしてもう一つ。
泣き声に似ていた。
言葉ではない。
それなのに、なぜか意味が分かった。
違う。
これは違う。
「ミレイア?」
カイラスの声も、もう遠かった。
彼女は羊皮紙を見つめた。
署名。
カイラス・ローデン。
ヴィオラ・アルメネス。
神官長。
二名の証人。
そして下部には鮮紅色の血印。
形式上、何もおかしくない。
けれど。
ミレイアは幼い頃から書類を読むのが好きだった。父の執務室に入り浸り、帳簿の数字が一桁合わないだけでも気になって仕方がない子供だった。
だから、違和感を無視できなかった。
カイラスの署名の最後の払い。
血印の色。
証人記録に記載された時刻。
それぞれが、ごく僅かに噛み合っていない。
「神官長様」
「何でしょう」
「この血印は、いつ押されたものですか」
「申請書類が提出された昨夜です」
「カイラス本人が?」
「当然でしょう」
ミレイアはカイラスを見る。
「昨夜、あなたはどこにいました?」
「何を言っている」
「お願いです。答えてください」
困惑しながらも、カイラスは答えた。
「王城だ。北境会議が長引いて、日付が変わる頃までいた」
大聖堂の空気が少し変わった。
ミレイアは羊皮紙へ目を戻す。
血印欄の記録時刻。
昨夜、二十二時十二分。
王城から月神殿までは、馬車でも三十分以上かかる。
「では、これは?」
ミレイアが示すと、神官長の顔から僅かに色が引いた。
「それは……申請手続き上の記録で、実際の押印時刻と多少ずれることはあります」
「多少、ですか」
「ミレイア、何が言いたい」
カイラスの声に苛立ちより困惑が増している。
ミレイア自身にも分からなかった。
ただ、羊皮紙から伝わる異様な感覚だけは消えない。
むしろ、細部を見るほど強くなる。
署名。
血印。
証人記録。
三つ。
まるで、羊皮紙そのものが教えてくれている。
「この契約には……」
声が震えた。
言っていいのだろうか。
この場には大公爵家も、侯爵家も、高位神官もいる。
自分は今しがた捨てられた、無能力者の伯爵令嬢にすぎない。
ここで妙なことを言えば、未練から騒ぎを起こした哀れな女として笑われるだけかもしれない。
それでも。
おかしいものを、おかしくないふりはできなかった。
ミレイアは顔を上げた。
「この契約には、三つの嘘があります」
静まり返った。
先ほどまで彼女を憐れみ、嘲笑していた貴族たちまで言葉を失っている。
最初に笑ったのはヴィオラだった。
「まあ……ミレイア様。お気持ちは分かりますけれど、さすがにそれは――」
「その話、詳しく聞かせてもらおう」
低い男の声が、大聖堂の後方から響いた。
誰かが息を呑む。
次の瞬間、参列者たちが一斉に道を空けた。
黒銀の髪。
灰青色の瞳。
漆黒の礼装の肩には、北方の大国ノクシア王家を示す銀狼の紋章がある。
ミレイアも肖像画でなら知っていた。
狼王国ノクシアの若き国王。
アルドリック・ノクス。
彼はゆっくりと祭壇へ歩み寄ると、誰よりも静かな顔で、ミレイアの手にある破棄契約書へ目を向けた。
「今、三つの嘘があると言ったな」
「……はい」
喉が乾いた。
けれど、アルドリックは笑わなかった。
憐れむこともしなかった。
まるで初めてこの場で、ミレイアの言葉そのものを聞こうとする人に出会ったような気がした。
アルドリックは彼女を真正面から見据えた。
「その三つを、俺の前で証明できるか?」
第33話 王妃候補になった途端、あなたは私の話を聞くのですね エレオノーラ・ハルトマンから届いた申立書を読み終えたあと、ミレイアが最初に確認したのは、夫の肩書きだった。「ハルトマン子爵、ですか」 翌朝、月律審理官室で資料をめくっていたローデリクが頷く。「オットー・ハルトマン子爵、四十六歳。南部に葡萄園と牧草地を持つ旧家です。王都では貴族評議会の宗教慣習委員会に所属しています」「宗教慣習委員会?」「婚姻儀礼、神殿との折衝、古い家法などを扱う委員会ですね。法制委員会ほど強い権限はありませんが、保守派の発言力が強い」 嫌な予感がした。「以前、エレオノーラさんは『番から離れるのは月神への背信だと神殿に言われた』と話していました」「覚えています」「ご主人も、そういう考えなのでしょうか」「可能性はあります。ただ、まだ本人から聞いていません」「そうですね」 決めつけない。 最近、それを意識する場面が増えた。 エレオノーラと最初に話した時、彼女は夫から殴られていないと言った。生活費も十分。子供たちにも優しい。貴族社会では「何が不満なのか」と言われる家庭なのだろう。 だからこそ。『幸せでなければいけないの』 あの言葉が、ずっとミレイアの中へ残っていた。「それで」 ローデリクが別の紙を出す。「夫側から条件が来ています」「条件?」「聴取には応じる。ただし、月律審理官ではなく『国王陛下の正式な婚約者』として来るなら話す、と」 ミレイアはしばらく黙った。「……意味が分かりません」「私も最初はそう思いました」「同じ
第32話 契約婚約なのに、王妃候補と呼ばれています 狼王アルドリックとの婚約が公表された翌朝、ミレイアの部屋には青いドレスが届いた。 注文した覚えはない。 正確には、青い服を買いに行くつもりはあった。けれど橋の上で襲撃され、その後はアルドリックの負傷、月律審理官の資格停止、保証人問題、契約婚約と続き、服どころではなくなっていたのだ。 それなのに、寝台の上には深い青色の布地が広げられている。 冬の夜空のような色で、銀糸の刺繍が襟元と袖口に控えめに入っていた。「……ニーナ」「はい」「これは?」「王室衣装部からです」「どうして?」「本日の婚約公表後、初めての公式会見用です」 ミレイアはゆっくり振り返った。「公式会見?」「はい」「聞いていません」「昨夜決まったそうです」「誰が?」「王室広報局と評議会、それから陛下です」 最後の名前で、眉が上がる。「陛下も?」「はい」「私には何も」「伝令は昨夜来たそうなのですが、ミレイア様が寝ていたので、陛下が起こすなと」 それを聞くと怒りにくい。「でも、起きてから教えてくれても」「今、教えています」「そういう問題ではないでしょう」 ニーナは少し笑いながら、ドレスを持ち上げた。「それより、見てください。青ですよ」「それは見れば分かります」「ご自分で選びたかったでしょう?」 そこだった。 ミレイアはドレスを見る。
第31話 私は、運命ではなくこの婚約を選びます アルドリックから契約婚約を申し込まれた翌朝、ミレイアは机の上に十二枚の紙を並べていた。 昨夜、自室へ戻ってから書いた条件案である。 当初は三十条くらいになるかもしれないと思っていた。 実際には、二十七条になった。「多いでしょうか」 朝食後、月律審理官室へ顔を出したローデリクへ尋ねると、彼は最初の一枚を読み、二枚目を読み、三枚目の途中で眼鏡を外した。「婚約契約ですよね?」「はい」「国家間の停戦条約ではなく?」「そこまで多いですか?」「条項数より、細かさの問題です」 横でニーナが覗き込む。「どんなことが書いてあるんです?」「ニーナ」「見ません。見ませんけど、気にはなります」 ミレイアは自分でも少しやりすぎたと思っている。 けれど、考えれば考えるほど条件が増えた。 婚約期間は最長六か月。 月律審理官の常設法制化が完了し、ミレイアが独立して職務を継続できるようになった時点で、双方の意思を改めて確認する。 どちらか一方が解消を希望した場合、理由の開示を義務づけない。 婚約を理由として互いの私室、書簡、交友関係へ干渉しない。 職務上の判断へ圧力をかけない。 公務上必要な場合を除き、身体的接触を求めない。 婚約解消後、金銭的・政治的・感情的な返礼を要求しない。 さらに。「第十四条。互いの過去の恋愛関係について、必要以上に質問しない……」 ローデリクが読み上げる。「そこも契約に?」「必要だと思って」
第30話 狼王から、契約婚約を提案されました アルドリックが「明日、一つ君に話がある」と言った夜、ミレイアはほとんど眠れなかった。 理由は分かっている。 ローデリクが見つけた適用除外条項。 王族の正式な婚姻予定者として王室簿へ登録された外国人は、外国人特別官の保証人要件を受けない。 つまり。 月律審理官へ戻るための方法が、一つだけ残っている。 王族と婚約すること。 そこまで考えれば、アルドリックが何を話そうとしているのか、想像するのは難しくなかった。「……でも」 客室の寝台で毛布を胸まで引き上げたまま、ミレイアは暗い天井を見つめた。 王族なら誰でもいいのだろうか。 ノクシア王家には傍系もいる。 遠縁の王族を探す方法だってあるかもしれない。 何より、アルドリック自身は国王だ。 王の婚約は、ただの書類上の措置では済まない。 国内政治。 外交。 王位継承。 貴族社会。 全部へ影響する。 だから、まさか。 そこまで考えてから。 橋の上で自分を庇った背中を思い出した。『君に、ここにいてほしい』 昨日。 アルドリックはそう言った。 仕事だけなら、別の人間を探せばいい、とも。「……寝られるわけないじゃない」 結局、夜が明ける頃まで何度も寝返りを打った。 翌朝。 ニーナが部屋へ入るなり、ミレイアの顔を見て眉をひそめた。「眠っていませんね」
第29話 誰も私の保証人になれない 国王アルドリック・ノクスの保証申請が却下された日の午後、ミレイアは初めて、自分の名前が書かれていない月律審理官室の扉を見た。 正確には、名前だけが覆われていた。 銀文字で刻まれた《王立法務院特別職・月律審理官》という職名はそのままだが、その下に取り付けられていた「ミレイア・セレス」の名札だけに、白い布が掛けられている。 解任されたわけではない。 任官停止でもない。 それでも、独立した調査権を使えない間は、法務院の規定上、責任者名を表示できないのだという。「……思ったより、嫌ですね」 扉の前で立ち止まったミレイアが言うと、隣のニーナも白い布を見上げた。「取ってしまいます?」「駄目です」「誰も見ていなければ」「もっと駄目です」「では、私が毎朝少しだけめくります」「何の意味があるの?」「ミレイア様のお名前が、まだそこにあるか確認します」 冗談だと思った。 けれどニーナは、意外なほど真面目な顔をしていた。 ミレイアは少しだけ胸が温かくなり、扉を開けた。「なくなりませんよ」「はい」「少なくとも、私が自分から辞めるまでは」「それなら安心しました」 室内は何も変わっていない。 机も。 本棚も。 昨日まで積み上げていた申立書も。 変わったのは、ミレイアがその書類へできることだけだった。 机に着いて一番上の申立書を開く。 王都西区の女性。 婚約契約の解除を申し出たところ、家族から「番候補を拒否するな
第28話 私には、この国で仕事をする資格がないそうです アルドリックが負傷して三日目の朝、ミレイアはようやく王立医療院から追い出された。 正確には、アルドリック本人と担当医、さらにニーナの三方向から「自分の部屋で眠れ」と言われ、最後にはグレンまで無言で出口を示したので、渋々戻ったのである。「私、そこまで邪魔でした?」 王城の廊下を歩きながら尋ねると、隣のニーナは呆れたように答えた。「邪魔なのではなく、ミレイア様まで倒れたら面倒が増えるのです」「面倒」「陛下と同じ言い方をすると、聞いてくださるかと思いまして」「最近、皆さんが陛下に似てきました」「逆では?」「どういう意味?」「ミレイア様が、陛下に似てきているのかもしれません」 それは少し困る。「どの辺りが?」「仕事を優先して食事を忘れるところです」「それは昔からです」「では元々似ていたのですね」 もっと困る。 結局、昨夜は自室へ戻ったものの、眠ったのは四時間ほどだった。 アルドリックの容体は安定している。熱もない。傷口の炎症も見られず、医師からは「数日無理をしなければ問題ない」と言われていた。 問題は、その「無理をしない」が本人にできるかどうかだった。 今朝も寝台の上で政務書類を読もうとして担当医に取り上げられ、かなり不機嫌になっていた。「陛下の様子は?」 ミレイアが聞くと、ニーナは少し笑った。「朝食を完食なさいました」「本当に?」「はい。ただし蜂蜜を増やすよう要求されたそうです」「元気ですね」「医師も同じことを申していました」